大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

京都地方裁判所 昭和55年(わ)1519号 判決

主文

被告人を懲役三年六月に処する。

押収してある刺身包丁一丁を没収する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は韓国で出生し、昭和一七、八年ころに日本に来て、同二一年にA子(昭和四年一〇月一五日生)と結婚し、以後京都市に居を定めて、靴修理業、飴屋、古鉄売買等に従事し、同三〇年ころからは、同市伏見区の京阪電鉄淀駅前で中華食堂(「F」)を開店してから妻及びその親族の協力を得て経営は順調に発展し、以後喫茶店(「G」)、パン屋(「H」)を順次開店し、それぞれを成人した息子達に任せるなど一応の成功を納めるに至ったものの、金銭面は妻が掌握するようになり、次第に妻や息子達が自分を軽んずるとの不満がうっ積し、これを紛らすため飲酒しその量が逐次増加するうち、同五〇年ころにはアルコール性肝障害及びそれに起因する糖尿病にかかったが、その後も依然として右不満が解消されず、入退院を繰返すも飲酒を自制することができなかったため、気性が強く飲酒の原因に気ずかず、ただ飲酒をやめさせようとする妻との間の軋轢が段々増し、被告人が酔って激しい夫婦げんかに至る回数も頻繁になっていたところ、同五五年一一月一四日早朝、被告人はいつものとおり次男CことDの経営するパン製造販売店に行き、同店へ行く途中で購入したビールを飲みながら仕事をし、その後同店へ来た前記妻とともにパン製造作業中、口論となり、同女が怒って先に帰宅した後も同店に残って作業を続けたあと、京都市伏見区《番地省略》の自宅に帰り、同日午前一〇時二〇分ころ、右自宅一階六畳の居間において、インシュリンを大腿部に注射後、朝食を取ろうとしたが、先に帰宅していた同女が朝食の用意をしていなかったため、これに小言を言い自ら同階台所に入って朝食の調理などをしていたところ、同所へやってきた同女と口論となり、引続き同台所及び廊下にかけて、勝手口の窓ガラスを破ったり、ビール瓶、手鍋、マッチ等があたり一面に散乱するに至る程の激しい夫婦げんかを気の強い同女とした挙句同日午前一〇時五〇分ころ、同階応接間入口付近において、憤激のあまり、右調理のため右手に持っていた刺身包丁(刃渡り約二〇・七センチメートル)で同女の左胸部を二回突き刺して同女に心刺創及び左肺刺創等の傷害を負わせ、よって、同日午前一一時五〇分ころ、同市同区下鳥羽広長町一番地蘇生会病院において、同女を心刺創により死亡するに至らしめたものである。

(証拠の標目)《省略》

(被告人・弁護人の主張に対する判断)

一  被告人は、本件犯行時は、インシュリン注射後で血液中血糖が降下して意識がもうろうとしていたので、妻を包丁で突き刺した記憶はない旨当公判廷で主張し、弁護人は、更に、本件は飲酒酩酊により被告人の事理弁識能力が著しく減退した状況下での犯行である旨主張するので、その趣旨に鑑み本件犯行時における被告人の責任能力について判断する。

二  まず、インシュリン注射と責任能力との関係で検討する。前掲各証拠によれば、被告人は、本件当日いつものとおり早朝から次男の営むパン製造販売店での手伝いをしたあと帰宅し、午前一〇時二〇分ころ、医師からの指示どおりラピタードインシュリン二四単位を大腿部に筋肉注射し、その後被害者との間で、自宅一階台所や廊下等で激しい夫婦げんかを五ないし一〇分間にわたり展開した挙句、午前一〇時五〇分ころ本件犯行に及んでおり、右注射後犯行時までの間、食事はもとより砂糖を摂取する等インシュリン注射後の低血糖症状の発生を防止する措置を講じた形跡は認められないものの、本件は右注射後およそ三〇分後の犯行と認められる。もっともこの点につき被告人は、本件当日午前九時ちょっと過ぎころにインシュリンを注射した旨主張するが、《証拠省略》によれば、被告人は自宅でインシュリンを注射後、一〇ないし一五分かけてタバコ一本をゆっくりと吸い終わってから台所で朝食の調理を始め、その直後に同所で被害者との夫婦げんかが始ったことが認められ、他方《証拠省略》によれば、台所での夫婦げんかは五ないし一〇分間続き、右夫婦げんかのおさまったあと五分前後位して急を知った被告人の長男のBがバイクで犯行現場にかけつけていることが認められ、更に、《証拠省略》によると、犯行直後、被害者自らの助けを求める電話により急を知ったBが、中華食堂「F」から被害現場にバイクで二分間位かかってかけつけ、被害者を発見してから同店従業員Eに救急車を手配するよう電話し、これを受けた同人が、午前一〇時五六分に一一九番通報していることが認められ、以上によれば、右夫婦げんかがおさまったころが、本件犯行時刻であって、それは午前一〇時五〇分ころであることが明らかであるから、この時刻から、右夫婦げんかの時間及びタバコを吸っていた時間等を勘案すれば、被告人は右犯行の約三〇分前にインシュリン注射をしたと解するのが相当である。ところで、鑑定人畑田耕司作成の精神鑑定書によれば、「ラピタードインシュリンの低血糖誘発効果の発現は、注射後約一時間からみられ、二時間以内に作用点に達するもので、注射後三〇分以内では被告人の血糖値が大巾に減少していたとは考えられず、被告人の場合は糖尿病にかかっているから、アルコール摂取によって低血糖状態に陥ることもなく、また血糖値の日内変動の最低値を示す時期と飲酒による体力の消耗、更にインシュリンによる急激な血糖値の低下が重なったとすれば、逮捕され警察へ向かうころは完全に意識がなくなり、そこでグルカゴン、ブドウ糖の静脈注射などの救急処置をしなければ昏睡からさめることはなかったはずである。」とされていることに加え、前掲各証拠によれば、犯行直後、長男のBが本件現場にかけつけた際、被告人は風呂場付近の廊下に立ったままでおり、事態を知った同人が「お母さんになんということするのや。」と問いつめると、被告人は「警察へ行こうかな。」とつぶやくなど、放心状態にあったとはいうものの、事態を正確に認識したうえで応答したとの状況が存すること、その後、午前一一時一八分ころ、警察官が現場へかけつけた際も、被告人は玄関から入って三ないし五メートルの廊下に玄関の方を向いて立っており、警察官の問いに対しても「私が妻を刺した。」と的確に応答し、酒の臭いはあったものの連行される際の足どりもしっかりしていたこと、更に、乗せられたパトカー内では警察官の問いに対し、本籍、氏名、生年月日、職業のほか妻の名前まで述べるなど的確な応答を続け、伏見警察署に到着の際も両脇をかかえられながらも一人で歩いて階段を昇っていることなど、犯行直後において、意識喪失はもとより、その他、精神及び身体の特別の異常を示すような徴候は認められず、かえって被告人は右伏見警察署到着後の午後零時五分ころに弁解録取書を作成されたあと、引続き同署取調室において取調中、急に両手などの震えの症状を示し、このときに至ってはじめて自己の糖尿病のことを訴え、砂糖をなめさせてもらって回復しており、それまでの間にはインシュリン注射後で糖分を補給する必要がある旨のさしせまった訴えを何らしていないのであり、しかも同日午後零時五五分に実施された被告人の飲酒検知結果によると、呼気一リットル中〇・四ミリグラムのアルコールが検出されており、前記鑑定書によれば、肝硬変による肝機能の低下を考慮したうえで、右検知結果にもとづいて推定された犯行時における被告人の血中アルコール濃度の推定値は、血液一ミリ・リットル中約一ないし一・五ミリ・グラムであり、他方、ビール大瓶二本を一時に摂取しても血中アルコール濃度は最高期に血液一ミリ・リットル中一ミリ・グラムを越えることはなく、ビール一リットルあたり五〇〇キロカロリーの栄養価を含み、その栄養価の半分近くはアルコール以外の成分から成っているとされており、これらによれば肝硬変によるアルコールの分解機能の低下を考慮しても右ビールの飲用によりそれだけ血糖降下作用が抑制される状況にあったと考えられる(なお、右小出医師の述べるアルコール自体のもつ血糖降下作用の点は同鑑定書によれば同被告人については影響なしとして否定されている。)うえ、被告人は、昭和五〇年に糖尿病を発病して以降、毎日インシュリンの自己注射を続けてきたものであるが、本件までの間に入院中や自宅において低血糖症状を起したことはあるものの、いずれも手の震えや異常発汗を初発症状とし、パン・牛乳・角砂糖などの摂取により回復しており、被告人が主張するような意識喪失にまで至ったことはなく、更に被告人は、公判廷では被害者を突き刺した際の記憶はない旨供述するものの、犯行直後には、刺したのは二回でなく一回である旨述べるなど少なくとも刺した記憶のある旨の供述をしていることなどその供述に変遷がみとめられ、犯行時の記憶欠落との主張自体に多大の疑問の存すること等の各事実が認められ、これら被告人の犯行後の状況、犯行前のビールの飲酒による低血糖症状抑制の可能性、インシュリンの使用歴等の各事実を併せ考えると、被告人が本件犯行時インシュリン注射による低血糖症状下にあったとの可能性を否定した前記鑑定書の内容には十分合理性を認めることができるというべきである。

三  更に飲酒酩酊と責任能力との関係で検討するに、前記二において認定のとおり、被告人は本件犯行前ビールを飲酒しており、犯行時の血中アルコール濃度は、血液一ミリ・リットル中約一ないし一・五ミリグラムであったと推定されるが、右血中アルコール濃度は一般的にも中程度の酩酊とされており、個人差はあるものの、この範囲の濃度では強い運動麻痺を伴う泥酔状態ではなく、逆に強い衝動があればこれに反応して行動できる状況にあった(鑑定書参照)と考えられるうえに、被告人は次男の営むパン製造販売店からバイクに乗って帰宅し、その後間もなく本件に及んでいるのであり、しかも本件は判示のような夫婦げんかの過程で犯されたものであるが、前掲各証拠によれば、被告人と被害者とは従前から夫婦げんかが絶えず、これまでにも夫婦げんかの最中に被告人が包丁を持出し、息子らが制止して事無きを得たことがあったと認められることからすれば、本件が従前の被告人の夫婦関係からは考え及ばないような異常な行動とはいえず、十分了解可能であり、しかも前記二に認定のとおり、犯行直後の被告人の言動等において、精神及び身体の異常を示すような徴候が認められないことをも併せ考えると、本件犯行時被告人は事理を弁識し、これに従って行為する能力に著しく影響を及ぼす程に酩酊していなかったことは明らかである。

四  よって、右各主張はいずれもこれを採用しない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法二〇五条一項に該当するので、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役三年六月に処し、押収してある刺身包丁一丁は判示犯行の用に供したもので犯人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項を適用してこれを没収し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文を適用して全部これを被告人に負担させることとする。

(量刑の理由)

本件は、被告人が夫婦げんかの末、妻を包丁で突き刺して死に至らしめたというもので、尊い人命を失わせたその結果はまことに重大であるうえに、刃渡り約二〇・七センチメートルにも及ぶ鋭利な刺身包丁でその身体の枢要部を二回も突き刺し、その創傷のいずれもが深いことから、相当強い力で突き刺したことが窺えるなどその犯行態様は極めて要質であり、しかも被告人は被害者ら家族の心配をよそに飲酒をやめず、酔ってくどくど文句をいっては暴行にも出て、このため被害者との間で夫婦げんかが絶えず、これが直接、間接に本件の原因となっていることからすると、被告人に対しては厳しくその刑責を問わねばならない。

しかしながら、他方、本件は飲酒による勢いも手伝い、激しい夫婦げんかの過程で一瞬の激情にかられた偶発的犯行であることは否定できないこと、被害者も被告人の飲酒が不満のうっ積によるものであることに気づかず、ただ飲酒をやめさせようとし、その強い気性とあいまって被告人からの口論、けんかに受けてたった事情がうかがわれること、被害者は被告人と三五年近く連添った、文字どおり糟糠の妻であって、自らの手でその一命を奪ったことが被告人自身にとっても大きな打撃となっていること、被告人は戦後の混乱期を除いては昭和三〇年ころ以降さしたる前科もなく、正業につき飲食店経営者としてそれなりの成功をおさめるなど概ね善良な社会人として生活してきたこと、現在相当高齢で、かなり重症の肝硬変、糖尿病の持病があること、これまで種々弁解はしているものの、犯行の結果を深く悔い、被害者の冥福を祈るなど改悛の情があることなど被告人にとって有利な事情が認められ、これらの諸事情を参酌のうえ、主文のとおり刑を量定した次第である。

よって主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 吉田治正 裁判官 安原清蔵 水島和男)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例